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Philosophical Deliberation about DEMOCRACY/
『原子力発電についての考察』/
人的災害と言う虚構
人的災害と言う虚構
1999/9/30
「ジェイシオウの臨界事故」が起こった
重要な事は3人の作業者が被曝した事である
何度もくり返して人的災害と言う言葉が出て来たが昔から、この言葉には抵抗を感じている。
あんまり、腹が立ってこのページを作っている内に、組織ぐるみの裏マニュアルの存在やら、様々のことが判明してきた
やっぱり、腹が立ってきた
1999/10/7
どうも、この事件はJCOが一人で悪者になっておしまいのようだ。
まず、『人災』の反対語はなんであろうか『天災』だろうか?これは違う、そう言う大きな括りだとすると全てが人災になってしまう。
少し考えてみるとこの言葉には色々な層が有る事が分かる。
1〜5までのレベルで何処に線をひくかと言う問題なのだ
例えば、チェルノブイリの事故は3のレベルでの間違いが有ったから起った事になっている
原子炉の設計、及び施工が手抜きだった(何せソビエトだから...)と言う事になっていた。だから設計者の人災であり、専門行政の担当者と政治家には責任がないと言う事になる。
チェルノブイリが手抜きで危険な原発だったと言う評価は、実際には全く違うのですが(事故以前までは、絶賛されていたし、日本の原発と全く同じレベルの安全装置が設置されていた/しかし、異常認知から爆発まで4秒という時間では何も出来なかったのだ)
1)政府 (政策決定 国策としての決定)
2)専門行政 (具体的な予算施行 原子力発電の是非のレベル)
3)現場での実施機関(予算の実行/管理 具体的な原子炉の設計)
4)実際の作業機関 (実際の作業指示/管理 具体的な原子炉の建設)
5)作業者 (実際の作業 運用/管理)
それで、今回の事故に関してみると5のレベルでのミスであり、作業者が悪いと言う事になってしまっている。
人的災害というのは3-5のレベルの問題を表現している
1-2のレベルにおいては、彼等にとっての間違えは存在しないのだ
チェルノブイリを考えて欲しい
あれだけ壊滅的な被害を国民に与えながら、上はきちんと生き残っている(まあ、ソ連の体制はチェルノブイリで崩壊したと言う話も有るのですが....)あくまで、3のレベルの問題に摺り替えようとしているのだ。
原子力発電は、2のレベルで明らかな誤算(実験室レベルの技術でしかないのにプラントを構成できると強弁)を行った。
「『今は出来ないが必ずできる様になる』と専門家が言っております」と言う言い方は何度もきいている。出来なかったら、それは専門家という人間のせいになるのだろう。(「出来る」を「安全」に等の言葉に置き換えてみましょう...)
核爆弾を作る時に、物理学者がいかに大きな役割を担って来たかは良く論じられる。
原子力行政を語る時、全く同様に科学者達は責任を負わなければならない。
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僕が以前務めていた鉄工所で僕は3回怪我をした(病院で縫ってもらうレベルの怪我である)
怪我をした側からはいくらでも言いたい事が有る。
しかしながら、『なぜマニュアルを守らなかったのだ』と一言言われたら何もいいかえす事は出来ない。
『なぜ、そのような面倒な手順を踏まなくて良い様な設備に出来ないのだ。』と言っても、それは金がかかるから出来ない。と言う事になってしまう。
作業マニュアルと言う形で決められてはいるが、その内容は多くの場合、無理が出て来る事が多い
なぜ、こんな手間がかかる事をするのだと不思議に思い色々と調べてみると、実は隠された設備上の構造的な不備が分かって来る
真に問題なのは、『設備を作ってみてから、不具合が見つかり、直さなければ危険なのに、直せなくて、マニュアルでカバーする』問いう状況なのだ
僕の勤めていた鉄工所でも、設備を作る時にきちんと現場の意見を聞くと言う事が無かった(十分で無かった)。そうすると、当然、問題点が多く発生する
なぜ、管理者と呼ばれているあいつらはあんなに偉そうなんだろうか。
一旦作った後で、問題が出てきても作りなおせない事はハッキリ分かっているのになぜ設計段階で十分に検討しないのだろうか
実はこの問題はソフトウエアの開発でも同様のものがあるのだ。
ウォーターフォール型の開発(一つ一つの段階を後戻りできない様に進んでいく)
では実際にできてきた現実と予定していた効果が一致しない場合がある。
問題はその時どのような対応をとるかである
多くの場合は変えられないのである
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文句の有る奴は相手になってやる、いつでも来い